第一次印パ戦争とカラチ会合

第一次印パ戦争から見る「カラチ会合」

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 はじめに

第1章 英領インドからの”分離”独立

第2章 どちらに転んでも「国家分裂」?

第3章 安保理による停戦とカラチ協定 

参考文献

 

はじめに

「カラチ会合」とは1949年7月にパキスタンの都市カラチで開かれた、第一次印パ戦争の停戦協定会合のことである。史実で成果文書として「カラチ協定」が調停され、両軍の停戦ラインが決定されたが、本質であるカシミール地域の領有権を決する住民投票及び両軍の退プロセスは平行線を辿ることとなった。ここでこの合意に至れなかったことで、印パ戦争は以後70年を超えて続く長い戦争になったとも言える。 

第1節 英領インドからの”分離”独立

  印パ戦争はその名前にもある通り、どちらも南アジアに位置しお互いに国境を接するインドとパキスタンによるカシミール地域の領有権を中心とする戦争だ。この争いは 1947年に発した「第一次印パ戦争」を皮切りに1962年「第二次印パ戦争」、1971年のバングラデュの独立戦争でもある「第三次印パ戦争」、1999年「第四次印パ戦争」を経て今もなお小競り合いが続き、大規模戦争に発展しかねない状態が続いている。

 現在のパキスタン、インド、バングラディシュがあるいわゆるインド亜大陸と呼ばれる土地は1947年まで英領インドとしてイギリスの植民地体制下にあった。植民地といえども広大な土地を一国が単独統治することは困難であったため、同地域の55%にあたる11の直地とし、残りの45%にあたる562もの藩王国*1には自治権を与えながらも駐官や政治顧問を派遣して間接統治の形をとった。第二次大戦後、ガンジーを始めとしたインドの国民会議派独立運動の影もあり、イギリスは英領インドの独立を決定する。しかし、その独立に際し、国民会議派ムスリム連盟の間で独立後の国家理念をり対立が発生する。ガンディーやネルーをはじめとする国民会議派は国家として宗教を持たず、特定の宗教のみが有利にならないようにする世俗主義」を掲げた国家を目指した。一方、ジンナー率いるムスリム連盟はインド亜大陸ムスリムとヒンドゥーは宗教だけでなく歴史、文化、社会なども異なる別民族であるためそれぞれ独自の国家を持つべきであるとする「二民族論」を掲げイスラームとヒンドゥーそれぞれ別の国家の必要性を訴えた。間に立ったイギリスは両者に対してインド亜大陸のうち、東ベンガル現在のバングラディシュ)と西パンジャーブ、シンド、バルチスターンをイスラームを国教とするパキスタン、その他のインド半島の大部分を「世俗主義」のインドとすること、約600もあった藩王国には、どちらの国に帰属するかを最終的に藩王が決定するインド独立法を提案し、両者がこれに合意する。

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両国の国家理念はそれぞれの国旗にも現れている

第2節 戦争の勃発

 同取り決めに従いほとんどの藩王は1947年の独立までに決定を下すが、一部の藩王国はその決定を下せずにその日を迎える。カシミール藩王国もそのひとつだ。
 
コラム:【カシミール*2とは】
 中央アジアに位置し、本州とほぼ同じ広さ(22.2万km²)の土地を有する藩王国である。1941年の国勢調査では総人口402万人の民族構成はイスラーム教徒77%、ヒンドゥー教徒20%余、シーク教徒1.6%、仏教徒約1%であった。注目するべきは、 その藩王ヒンドゥー教徒であった点だ。
 
 カシミール藩王は1947年の英領インドからのインド、パキスタン分離独立の際にはどちらにも属さない第3国としての独立を望んだが*3藩王国内の反藩王勢力(アザド・カシミール政府)とそれを支援するパキスタンからの義勇軍及び正規軍の軍事介入により、東西2国の戦争に巻き込まれる。
 アザド・カシミール軍及びパキスタン義勇軍は首都スリナガルまで目と花の先まで及びこれに焦った藩王ついにインド連邦への加入書及び軍事援助を要請を行なった。インド政府は事態安定後の住民の意思によるインド帰属を条件として帰属申し入れを受諾し、インド正規軍をカシミールに空路派遣した。これに呼応しパキスタンも正規軍をカシミールに派遣することとなる*4
 インド軍はスリナガル*5まで迫っていたパキスタン勢力を押し返し、カシミールの約3分の2まで前線を進めた*6ところで「パキスタンがアザド・カシミール軍を援助していることはインド領に対する侵略行為である」として1948年1月1日に国連安保理に提訴を行った*7。これに対してパキスタンも「カシミールのインドへの帰属申し立てが、住民の自由意志によるものでは無いため無効である」とし、インド軍の不法介入を同月16日に反対提訴するに至った。
 
コラム:【カシミール住民の反藩王感情】
 アザド・カシミール(自由なカシミール)の存在に代表されるように、1947年当時の特に一部地域のカシミール住民に反藩王感情があったのは事実である。長年、ジャンムー西部の住民は藩王から重税を課せられていたことや、その税を撤廃する運動を起こした際には藩王による「刀狩り」が行われている*8。また、その「刀狩り」によってムスリム教徒から奪われた武器がヒンドゥー教徒シク教徒に渡ったことで、同地域の反藩王感情はさらに強まり、1947年春にはパキスタンから武器の調達を行いパキスタンへの併合を求めた武力発起が発生した*9。しかし、カシミール全体を見た時その大多数の住民が反藩王であったわけではない、スリナガルの住民などは印パで自分らの帰属をめぐって駆け引きが行われていることは知ってはいたが、彼らはカシミール民族としての意識が強くどちらにつきたいかなどは見当がつかづただその推移を見守っているだけであったとも言われている。

第3節 どちらに転んでも「国家分裂」?

 そもそもなぜ、印パ両国はこのカシミール地域を欲したのか。カシミール紛争自体「宗教戦争」であるとの見方もあるが厳密には異なる。これら対立は第1節で述べた両国の「国家理念」に依拠するものであることが大きい。まず、パキスタンの国家理念である「二民族主義」からすれば、「イスラーム住民が多く住む土地はパキスタン、その他はインド」であるとの考えであった。しかし、同国は実上他民族国家であり、国内で反ムスリム国家に反対する勢力が少なからずあった。つまり、イスラームが70%を占めるカシミール州がインドのものとなることはその国家理念自体の否定であり、これを認めることは当時同国内にあったそれら反対運動を活性化させるづける火種となりえたのためである。一方、インドも同様に国家分裂の危機にあった。1947年の印パ分離独立の時点でどちらへの帰属も決定しなかったのはカシミール州だけではなく、インドの内陸及び東部に位置するハイデラバードとジュナガルも同様にインドへの帰属を決定しない状態であった。これら藩はカシミール同様イスラーム住民が多くい地域であり、インドへの帰属に反対し、抗争が怒っている状態であった。どんな宗教も差異なく共存する「世俗主義」を国家理念として掲げるインドにとって同様にどっちつかずの地域でありながら、イスラームの多いカシミールがインドに帰属しないことは同様にその国家理念の否定及び、国内の反対運動の活性化へとつながりかねない状態があったからだ。このように、両国にとってカシミール問題は根本的に合意可能領域が極めて少ない問題であったともとれる。

第4節 安保理による停戦とカラチ協定

安保理決議39号 S/39(1948)

 インドは安保理に提訴することで、同問題におけるパキスタンを「侵略者」と明確に位置付けインドの主張を国際社会に認めてもらうことを図った。しかし、安保理はその意に反しパキスタンの侵攻を明記せず*10、両者の停戦と住民投票での最終的な決着を決定した。

 また、当事者両国の提訴に混乱した安保理は提訴内容の精査、報告、そして停戦の調停のために委員会の派遣を決定するのがUNCIP*11である*12

 インドにとってこの国連の決定は意外であり、「国内問題」を主張する同国にとって「住民投票」は好ましい解決方法ではなかった。インドにとって、カシミールは同国連邦に帰属したものであり、もし住民投票を実施したとして、それはすなわち同地域住民の事後承認を意味するに過ぎなかったからである。そのため、インドにとってこの住民投票はあくまでパキスタン軍が侵入する以前の状態にカシミールを戻すことに過ぎない。しかし、そんな中でも幸いであったのが、UNCIPの「停戦決議」勧告の中に「休戦協定の第一歩としてパキスタン軍の先時退」が提案されたことだ。

コラム:【インドが当時楽観視した理由】

 当時のインド首相(ネルー)は「住民投票」が実施されることに対してもさほど悲観的ではなかった。それはカシミール住民が宗教的一体性よりも、カシミール人としての民族的一体性を重視するだろうとの自負があったためだ。現在まで約70年続く印パ戦争に際し、インドがここまで住民投票に楽観的であったのはこの時だけであり実際1953年に一度インドはパキスタン側に住民投票の提案を行っている。しかし、これはパキスタン側がその方法について合意できないとし一蹴してしまう。直後のアブドゥッラー逮捕事件によりインドは態度を硬直化、今後このような機会が訪れたることは現在までない。

 UNCIP「停戦決議」勧告 
 1948年7月7日に現地に到着したUNCIPは8月13日に以下の三つを骨子とした「停戦決議」を両国に勧告する。
 
①印パ両国が軍に対して停戦を命じること
②印パ両軍がカシミールから撤退し、休戦を協定すること
③帰属は人々の意思(=住民投票)によって決定すること
 
 この勧告は印パ双方から「原則的」な合意を得た。注目するべきは③の「住民投票」についてであるUNCIPは「自由にして公平な住民投票による民主的方法」によって事態の解決を図るということを提示した。つまり、カシミールの「正常な状態」への回復が前提であり、この「正常な状態」とは両国軍隊のカシミールからの撤退にかかっていた。ここで問題となるのが両軍がどのタイミングでそれぞれ撤退するのかだ。インド側は、「パキスタンが侵略者であるとのスタンスから、パキスタンの戦時撤退を強行に主張した。また、UNCIPもこのことに一定程度憂慮を決議第二節の「休戦協定に関する手続き」では以下を休戦協定の基本方針の大枠と定めた。
 
パキスタン政府カシミールから、自国軍隊を撤退させる。
パキスタン政府カシミールから同州に侵入して来た辺境トライブ及びパキスタン国民を退去させる。
パキスタンはによって占領されていた地域は、UNCIPの監督のもとに「地方政権」 によって統治せしめる。
④上記①及び②が達成された後、インド政府は軍隊を撤退せしめる。
 
これに対して両国は以下のように反応をした。
 
【インド】

◯侵略者パキスタンカシミールから撤退することは当然のこと

◯アザド・カシミールの傀儡政権はその存在を認められるべきではない

◯アザド・カシミール政権の武装解除が要求されるべき

パキスタン軍の占領地域をアザド・カシミールに委譲するなど問題外である

◯インド軍がインド連邦の一部であるカシミールでの治安維持を行うのは当然の義務である

◯インド軍の撤退は州内の侵略の危機が消滅した時にのみ問題になりえる

住民投票及び銃内の行政権の問題に関して、パキスタンになんら関与する権限はない

 

パキスタン

カシミール藩王のインド連邦への加入の合法性を拒否

カシミール問題の帰属は今後の協定によって解決されなければならない

◯アザド・カシミールは合法政府であり、UNCIPの監視下に置くことは遺憾

〈正規軍が侵略行為を行ったする主張への反論〉

◯インド軍がカシミールに派遣された事態に対しての自国の領土保全

◯戦乱の最中にあるイスラームの保護

◯「カシミールのインド帰属」が既成事実となることを回避するため

 

 インドは、カシミールはインド連邦にすでに帰属する地域だるとの主張を崩さず、自国軍の先時撤退は断じて許さなかった。一方でパキスタンはもし同国軍が撤退した場合、インド軍が最終的に撤退しおえるまでにアザド・カシミール政権がインド軍の重圧に耐え切れるのかどうかの不安があり「印パ同時撤退」を主張し、アザド政権UNCIPの監視下に入ることも強く反対した。このように史実で住民プロセスに関して平行線を辿り、結局カラチ会合で合意できたのは「停戦ライン」の策定のみであり、UNCIPに委託された住民投票を含む「調停」は失敗に終わる。

 

〜参考文献〜

【書籍】

・広瀬和司(2011)「カシミール問題の歴史-紛争の深淵へ」『カシミール/キルド・イン・ヴァレイ:インド・パキスタンの狭間で』現代企画室,p75-83

・近藤治(1998)「第四章インド・パキスタン戦争とバングラディシュの建国」『現代南 アジア史研究インド・パキスタン関係の原形と展開』世界思想社,p106-119

・堀本武功(1997)「第IV部南アジアにおける紛争と統合」『インド現代政治史』刀水書 房,p168-170

【論文】
・田中直吉,佐藤栄一(1961)「カシミール問題」( カ シ ミ ー ル 問 題) [最終検索日:2021/02/26]

・堀本武功(2015)「インドの戦争ー印パ戦争と印中国境紛争ー」平成27年 戦争史研究国際 フォーラム報告書( インドの戦争―印パ戦争と印中国境紛争― ) [最終検索日:2021/02/26]

・渡辺昭一(2018)「冷戦期南アジアにおけるイギリスの軍事援助の展開」『国際武器移転 史』( Title 冷戦期南アジアにおけるイギリスの軍事援助の展開 Author(s) 渡辺,昭一 Citation 国際武器移転 )[最終検索日:2021/02/26]

*1:幕末日本の「藩」と似たようなもの

*2:ちなみに当時のインド首相ネルーカシミールにルーツを持つ

*3:これは藩王が自らの権益を保持しようとしたためとも、カシミール民族主義者として独立を考えていたとも言われている。

*4:コモンウェルス自治領同士の軍隊が互いに先頭を起こしたのはこれが史上初めてである。

*5:カシミールの首都

*6:インドとパキスタンの間では圧倒的な軍事力の差があった。これは、2カ国が英領インドから分離独立する際に英国が印:パ=2:1で軍備品の分割を行ったことが大きい。

*7:インド軍がカシミールの三分の二でその進軍を止め安保理提訴を行ったのは、同国の非暴力主義の影響から、法的に正当な手段でのカシミール帰属を望んだからであるともとれる。

*8:この地域のムスリム第二次世界大戦下で英領インドの軍人(藩王の軍人ではない)として戦ったものが大勢いた

*9:後にこの勢力はヒンドゥー教徒シク教徒への虐殺を行い、返す刀でこれらは藩王の援助を得て武力衝突を行った。

*10:インドの安保理提訴は米英からの支持を得られなかった。記録では、イギリス国連代表ノエルベーガーのもとに届いた情報は「パキスタンに鼓舞されたパトゥーン人たち(義勇軍)の越境がカシミールの混乱を招いたとは確 信が得られず、むしろ藩王イスラーム弾圧が真の原因である」とされたいた。このためノエルベーガーはアメリカ代表にパキスタン軍の同地域駐留を容認するように説得したほどでだったとか。しかし、同戦争が「朝鮮戦争」前であり、本格的に冷戦が始まる前であったことや、カラチ会談後も英米共に印パ和平に尽力している様子、また、その後のももろの南アジア外交政策をみるに、この段階での英米2カ国のこの行動は大国の影響力を組み込むことを意図したものではなかったのではないかと筆者は考える。

*11:UNCIPはアルゼンチン、チェコスロバキア、米国、ベルギー、カナダの5カ国の委員で構成されている。

*12:厳密には、当初は提案された「三人委員会」が改変された組織である。